帰ってまいりましたが、時差ボケがひどく、
昨夜は眠れませんでしたが、何故か元気です(笑)
アメリカ、ナッシュビルの旅行はとても有意義でした。
老若男女がいりみだれ、積極的に音楽を楽しむ姿は、
あまり日本では見た事のない光景でした。
この街の音楽産業の歴史と現在を
少しだけ垣間みたような気がしています。
ほんとに少しだけ接しただけですが、
記しておこうと思ってます。
「カントリーミュージックの教会」といわれる
ライマン公会堂に行ってきました。
かつてのグランド・オール・オープリー会場として
有名な場所です。
ここは、蒸気船の船長トーマス・ライマンが、信仰復興論者サム・ジョーンズ
に捧げた礼拝堂でした。
その後、多くの有名なカントリーミュージシャンがこの舞台を踏み、
様々な逸話を残したとのことでした。
またカントリーだけではなく、バレーやオペラ、ジャズなど
数多くのアーティストが出演した場所です。
バックステージツアーというのがあり、
舞台裏の楽屋で音楽家の逸話を聞かせてくれるツアーがあります。
生憎英語。英語の解る人にはお勧めの充実したツアーです。
私たちは、真梨さんが一緒だったので、通訳していただけて
ラッキーでした!
ハンクウイリアムスに捧げられた楽屋とか、
女性アーティーストに捧げられた楽屋とか、
エミルー・ハリスに捧げられた楽屋とか、
様々な楽屋に写真や縁の品が飾ってあります。
1974年以降、オープリー会場がもっと大きな場所に変わったため、
このライマン公会堂があまり使われなくなったのを
エミルー・ハリスがアルバム収録に使用し、ヒット。
それがきっかけで、またこの公会堂が復興し、
現在も様々な公演、そして博物館として使用されているので
エミルー・ハリスに捧げられた楽屋があるとのことでした。
残念ながら楽屋の写真は撮らせてもらえません。
ハンク・ウイリアムスは1949年に出したLovesick Bluesがヒットしたのを
きっかけに、出演。
最初1曲の予定が、アンコールの連続で、
6曲歌うことになったとのこと。
その後、アルコール中毒や薬物中毒が原因で
オープリーを解雇されたのですが
爆発的な人気の為、再演が決まっていました。
しかしそれが叶わず29才で亡くなったということでした。
またエルビス・プレスリーが初めて出演する時、「Bluemoon of Kentucky」を
歌うことになっていたのですが、その曲を作曲したビル・モンローもその時
同時に出演していて、プレスリーは大変ナーバスになり、
舞台袖で緊張のあまり震えるほどだったとのこと。
以後、それがトラウマとなり
オープリーに出演することはなかったそうです。
そんな話を聞きながら人々の情熱や夢に浸る1時間くらいのツアーでした。
昨夜は眠れませんでしたが、何故か元気です(笑)
アメリカ、ナッシュビルの旅行はとても有意義でした。
老若男女がいりみだれ、積極的に音楽を楽しむ姿は、
あまり日本では見た事のない光景でした。
この街の音楽産業の歴史と現在を
少しだけ垣間みたような気がしています。
ほんとに少しだけ接しただけですが、
記しておこうと思ってます。
「カントリーミュージックの教会」といわれる
ライマン公会堂に行ってきました。
かつてのグランド・オール・オープリー会場として
有名な場所です。
ここは、蒸気船の船長トーマス・ライマンが、信仰復興論者サム・ジョーンズ
に捧げた礼拝堂でした。
その後、多くの有名なカントリーミュージシャンがこの舞台を踏み、
様々な逸話を残したとのことでした。
またカントリーだけではなく、バレーやオペラ、ジャズなど
数多くのアーティストが出演した場所です。
バックステージツアーというのがあり、
舞台裏の楽屋で音楽家の逸話を聞かせてくれるツアーがあります。
生憎英語。英語の解る人にはお勧めの充実したツアーです。
私たちは、真梨さんが一緒だったので、通訳していただけて
ラッキーでした!
ハンクウイリアムスに捧げられた楽屋とか、
女性アーティーストに捧げられた楽屋とか、
エミルー・ハリスに捧げられた楽屋とか、
様々な楽屋に写真や縁の品が飾ってあります。
1974年以降、オープリー会場がもっと大きな場所に変わったため、
このライマン公会堂があまり使われなくなったのを
エミルー・ハリスがアルバム収録に使用し、ヒット。
それがきっかけで、またこの公会堂が復興し、
現在も様々な公演、そして博物館として使用されているので
エミルー・ハリスに捧げられた楽屋があるとのことでした。
残念ながら楽屋の写真は撮らせてもらえません。
ハンク・ウイリアムスは1949年に出したLovesick Bluesがヒットしたのを
きっかけに、出演。
最初1曲の予定が、アンコールの連続で、
6曲歌うことになったとのこと。
その後、アルコール中毒や薬物中毒が原因で
オープリーを解雇されたのですが
爆発的な人気の為、再演が決まっていました。
しかしそれが叶わず29才で亡くなったということでした。
またエルビス・プレスリーが初めて出演する時、「Bluemoon of Kentucky」を
歌うことになっていたのですが、その曲を作曲したビル・モンローもその時
同時に出演していて、プレスリーは大変ナーバスになり、
舞台袖で緊張のあまり震えるほどだったとのこと。
以後、それがトラウマとなり
オープリーに出演することはなかったそうです。
そんな話を聞きながら人々の情熱や夢に浸る1時間くらいのツアーでした。
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